ファッションと比較文化人類学

装いの法則

以前「テルマエロマエ」という映画を見たのですが、ここでは古代ローマから現代の日本にタイムトラベルしてきた技師のローマ人男性が、主人公ら日本人を「平たい顔族」と称します。

また、私も著書を持っていますが、小栗左多里さんの「ダーリンは外国人」にも欧米人の顔立ちにおけるその彫りの深さを「トニー渓谷(トニーというのは旦那さんの名前です)」という絶妙な表現で表わしています。


確かに欧米人に比べ、我々の多くは形態人類学のいわゆる新モンゴロイド系の特徴を色濃く有していて、凹凸の少ない顔立ちをしています。

しかし、もっというと、衣服の世界においても日本人にはまだこの平面性が維持されているような気がします。

なぜ、そんな話をするかというと、イタリアのフィレンツェで名を馳せた靴職人である深谷 秀隆さんの展覧会の告知を見たからです。

L’AMMALATO  苦しみ傷ついて、病んだ心
FIGURA  SEDUTA 座り込んで考えている羞恥
ACROBATA  曲芸的に難関を切り抜ける怖いもの知らず

今回は、この奇妙な靴の展覧会からインスピレーションを受けて、日本人と欧米人の衣服の考え方の違いについて、極めて独善的かつ稚拙な視点ではありますが、記事にしてみました。

欧米人と日本人における体の立体感の違いによる衣服についての考え方の違い

靴が人間から独立して意思を持つように感じる….なんとなくこの感覚はありそうでなかったような気がしますが、これは日本人だからこその発想ではないかと思います。

襟がなぜあるのかという問題についての記事も書いていますが、着物文化である日本人にとって、洋服の文化はかなり驚きをもって迎え入れられたのではないかと思うのです。

一方、欧米人が着物を見ても、やはり別の意味で驚きを感じると思います。

日本は「布に合わせて纏う」文化

着物は基本的に直線裁ちの直線縫いで、それを体に合わせてうまく調整しながら体に合わせていきます。

草履も基本的には扁平の板を指に固定するというスタイルです。

特に着物などは、わざわざ腰にタオルを巻いて寸胴に整えると逆にキレイに着こなすことができるぐらいで、体の凹凸をあまり意識する必要のない衣服です。

布や素材が先にあって、それを人間が工夫して体に纏う というような考え方がしっくりくるような気がします。

そのため、着物や履物は定型でありながら、その着方や作法、布の選び方や素材、色、柄などがファッションの肝となり、季節や年齢、TPO、生活レベルやステイタス、職業、流行などに応じて、ぱっと見れば違いが分かる、あるいはよくよく見れば、見る人が見れば違いが分かるというようなところで個性を表現する文化であると思います。

それは、もともと顔だけでなく体型に関してもそれほど抑揚が少ない日本人ならではの文化であった可能性があるのではないかと思います。

さらに、特に日本人の自然観にも関係しているような気がしています。

欧米は「布を体型に合わせて着る」文化

一方、欧米は体に合わせて部品を組み合わせて布を接ぎ合せて服にしていきます。

あくまでも立体に合わせることを目的として、平面である布は大胆に裁断され、ダーツやフリルなどで元の立体の形をさらに強調することさえあります。

そうなると、形はありとあらゆる可能性が考えられ、その形を形成するためにどのような質感、種類の布をどうやって使うかがファッションの肝となり、誰が見てもその洋服の個性が一目で分かるようになっています。

また、大昔の庶民の服装においても、少なくとも筒状にしたものが原型になっていることも考えると、抑揚の大きな欧米人は、自らの体を保護するための衣服をもともと立体視していた可能性があるのではないかと思います。

これは、欧米人が常に自然物に積極的に手を加え、自らが制御できる形にしてきた自然観にも関係しているような気がしています。

日本人と欧米人がお互いの服をもし交換したらどう思うか

もし、お互いの交流がまだなかった時代に、和装一式を欧米人に差し出したら、まずはそのコンパクトさに驚くと思います。

また、これをぱっと見て衣服だとすぐに思いつかない可能性だってあります。

したがって、当然これを着こなすことは難しいでしょう。

なぜ、服を着るだけでこんなにメンドクサイ思いをするのかとイライラするかもしれません。

対して、洋装を初めて見た日本人はどう思うでしょうか?

まだ体を通してもいないのに、すでに人の形をしている洋装の精巧な造りに驚嘆し、すぐにでも腕を通したいと思うに違いありません。

しかし、筒状を基本とした洋装は、着る人の体型が異なると、小さすぎて体を入れることができないか、あるいは大きすぎて外に着ていくことができません。

服=個性であることを痛感するのではないかと思うのです。

また、折角贅沢に布を使っているのに、特定の人しか着られないなんてもったいないと思うかもしれません。

靴の造形美からアートへの連想

冒頭の深谷さんは、日本人でありながら本場イタリアにおいて自らの店を構え、長年多くの人の靴をオーダーメイド(ビスポークと表現されています)で作ってきたそうです。

欧米人にとっては、あくまでも自分の足にフィットする靴を注文し、それを買っていくにすぎません。

同じように欧米には生粋の靴職人が沢山いるはずですが、そもそも靴は足に合わせて作られたことであの形になったのであり、人に制御される存在です。

靴自身の造形はあくまでも人の個性を発揮するためのツールであって、アートにするという発想は生まれてこないのではないかと思います。

しかし、深谷さんは、様々な人の多様な注文を受け、様々な足に対応した木型を作るうちに、靴の造形美に魅せられ、それ自身に強烈な個性を感じるようになったのではないかと思います。

それがアートという形に昇華したのではないかと思った次第です。

これはいかにも平たい顔族的発想ではないでしょうか。